2016年を考える イスラムと米国 融和と共生への知恵を

2016年01月03日(日)毎日新聞 一本社説 2016年を考える イスラムと米国 融和と共生への知恵を
http://mainichi.jp/articles/20160103/ddm/003/070/054000c

>1909年、韓国統監だった伊藤博文は、ロシアから来たイスラム教徒のアブデュルレシト・イブラヒムを別荘に招いた。遠来の客からイスラム教の話を聞き、一緒に「アラーの他に神はなく(預言者)ムハンマドは神の使徒なり」と朗唱もした。イスラム教徒にとって大切な「信仰の告白(シャハダ)」である。


>元宰相が入信したわけではないが、イスラム教の話に感じ入った伊藤は「なんということ! 承服できないことは一つもない。これは大変気に入った」「私もたえずこうしたものを追求してきました」と語ったという(イブラヒム著「ジャポンヤ」第三書館)。伊藤が暗殺される数カ月前のことだ。

 

春畝伊藤博文人がいいといえば人がいいのであろう。

が、彼の師匠、松菊木戸孝允(長州閥巨頭。維新政府の中では最も地に足の付いた開明派)は、キリスト教カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)とで何十年も戦争をしている、数百年も仲違いしているという情報を得ただけで愕然とし、春畝伊藤博文等がキリスト教を日本の国教にしようと提案しているのを却下している。天皇キリスト教徒にして日本国教会のようなものを作れば英国風となり、破約攘夷(安政不平等条約の撤廃/改正)や四民平等や産業振興や新しい倫理などに色々好都合なはずだったが、戊辰戦争西南戦争より遙かに厄介な混乱/内戦を引き起こしてしまう危険性も大いにある。どう転んでも、できたてほやほや、文明開化し始めた直後の維新政府には余りにも荷が重過ぎたであろう。

 

キリスト教の新旧間の戦争は北アイルランドを最後に1998年に完全終了している模様である。

 

そのキリスト教よりも遙かに本質的で酷い問題がイスラム教にはあると思う。

 

イスラム教は、キリスト教の新旧対立に相当するスンニ派シーア派の対立の上に、「コーランか剣か/コーランか貢納か剣か」という大問題がある。

 

wikiコーランか剣か 」にもある。
ハディース「強制」二の一 からの引用。

【我々がモスクに居たとき、神の使徒(=ムハンマド)が来て、「ユダヤ人達のところへ行こう」と言ったので、我々は彼と共に出かけ、或る学校に入った。そこで預言者(=ムハンマド)が「ユダヤ人達よ、イスラームを受け入れよ、そうすれば身の安全を保証されよう」と言ったとき、彼らが「ムハンマドよ、お前の伝えたいことはそれか」と尋ねたので、彼は「そうだ」と二度答え、さらに「お前の伝えたいことはそれか」と尋ねられたときも、彼は「そうだ」と答えてから、「大地はアッラーと使徒(=ムハンマド)のものであることを知れ。わたしはそこからお前たちを追い出そうと思う。お前たちのうちで何がしかの財産を持つものは、それを売れ。さもなければ、大地はアッラーと使徒のものであることを知れ」と言った】

 

な、なんと、「使徒」「預言者」ムハンマドは、信教の自由、個人の自由意志、個人の自己決定権、個人の財産権を認めていないどころか、イスラム教徒にならない限り実質殺すと脅迫している。「使徒」「預言者」というよりは独裁者である。

この「使徒」「預言者」ムハンマドの言葉を全イスラム教徒があらゆる意味で完全に否定し去らない限り、イスラム教は全く尊重するに値しないカルトに過ぎないということにならざるを得ないであろう。

 

また、「イスラム教」は、この大欠陥があるが故に、「アブラハムの宗教」を悪用したファシズム/恐怖政治のカルトに過ぎないと絶えず報道によって警告され続けるべきであろう。

兎に角、そういう理由で、今後も、イスラム教徒たち自身の責任によって全く余計な虐待/虐殺/戦争が起こり得ると言える。困ったことに。